文学案内板
瑞泉寺
このような案内板がありました  



文学案内板


境内が史跡、背後の庭園が名勝に指定されているこの禅刹瑞泉寺には、多くの文化人が来訪し数多くの文化作品が創り出されているがこの案内板では文学遺跡と文学碑と、ゆかりの文化人を紹介する

○中世文学遺跡
    彳扁(一字)界一覧亭 夢窓国師の草創で五山文学発祥の地と伝える
○文学碑
    大宅壮一評論碑「男の顔は履歴書である」(昭和四十六年建立)
    久保田万太郎句碑「いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ」(昭和五十四年建立)
    吉野秀雄歌碑「《死をいとひ生をもおそれ人間のゆれ定まらぬこころ知るのみ」(昭和四十三年建立)
○ゆかりの文化人
    大宅壮一(評論家)大佛次郎(小説家)梶山秀之(小説家)川端康成(小説家)久保田万太郎(小説家 劇作家 俳人)久米正雄(小説家)高浜虚子(俳人)立原正秋(小説家)永井龍男(小説家)山崎方代(歌人)吉野秀雄(歌人)

尚詳細は鎌倉文学館(鎌倉市長谷1-5-3 電話23-3911)にご照会ください
平成三年三月 鎌倉教育委員会 鎌倉文学館



夢窓国師古道場:
夢窓 疎石(1275 - 1351)
九歳にして得度して天台宗に学び、後、禅宗に帰依。高峰顕日に参じその法を継ぐ。正中二年(1325)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住。五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園などを作庭。


松蔭吉田留跡碑:
天保元年(1830)長州藩(萩)士杉百合之助の次男として生まれ、後に叔父吉田大助賢良の養子となる。 江戸の佐久間象山のもと砲術・蘭学などを学ぶ。 山口県に戻ってから松下村塾を開いて弟子の教育にあたり、尊皇攘夷論を説いた。 その後、安政の大獄(1858)で捕らえられ、江戸に送られて安政6年(1859)処刑された。 イギリスの文豪スティーブンソンは1882年明治15年「死をも厭わない勇敢な行動」と松陰の人物を評論し、世界で初めて活字化された。 明治維新で活躍する高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允など大久の人たちに影響を与えた。


大宅壮一評論碑:
《男の顔は履歴書である》
1900年生まれ、1970年没のジャーナリスト、文筆家。 無数の新造語(「一億総白痴化」「駅弁大学」など)によって大活躍、マスコミ天皇と呼ばれた。


久保田万太郎句碑:
《いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ》
明治22(1889)〜昭和38(1963作家 劇作家


山崎方代歌碑:
《手の平に豆腐をのせていそいそと
いつもの角を曲りて帰る》
山梨県左右口(うばぐち)生まれ、1914年〜85年、戦時中南方で右目に銃弾を受け失明同然となる。左眼も弱視。復員前から 「一路」「水甕」「泥の会」「うた」などの歌誌に所属。晩年は鎌倉の手広に独居する。俳句の種田山頭火(たねださんとうか)や尾崎方哉(おざき ほうさい)などとともに「放浪の歌人」と並び称される。 第一歌集「方代」、第二歌集「右左口」、第三歌集「迦葉」。他に「首」「こおろぎ」など。


吉野秀雄歌碑:
《死をいとひ生をもおそれ人間の
ゆれ定まらぬこころ知るのみ》
歌人明治35年(1902)高崎に生まれ、生涯の大半を療養の床に過ごす。「苔径集」「早梅集」「寒蝉集」などの歌集。「やわらかな心」「心のふるさと」等の随筆。昭和42年(1967)65歳で亡くなり、遺歌集に「含紅集」が出ました。鎌倉には、永住するため昭和6年小町に転入しました。鎌倉短歌会をおこし、また、鎌倉アカデミア文学部の教授を、昭和21年から廃校までの四年間を勤めています。墓所は瑞泉寺にあり、命日には艸心忌が営まれます。




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